前言撤回

タグチがおとどけする、ゆるふわ系徒然ブログ(大嘘)

自己満足とそれ以上の評価

このブログの更新がストップして、はや2週間。

ブログの更新を心待ちにしている読者の方のために、ようやく重い腰をあげようとおもう。

いや、腰をあげて席から立ち上がると立ったまま文章を書くこととなりきわめて不便なので、改めて座りなおそうと思う。

 

それはさておき。

ものすごくまじめな、きわめて心理学的で真面目なタイトルを掲げてしまった。

まかり間違って、そういったカテゴリの読者に読まれたらどうしようと今からビクビクしている(まあほとんどありえないことなので明らかに余計な心配なのだが)

 

切羽詰まっている。これは実世界における私の状況をきわめて端的に表すいい言葉だと思う。頭の中が、いろんなもので詰まってパンパンで今にも爆発しそうというような意味なのだろうと字面からは推察する。しかし、切羽である。切った羽である。羽毛だ。フワフワしていてなんとなく寝心地はよさそうだが、そんな快適に寝られる状況に今はない。理由はきわめて大人の事情で、高度に政治的な可能性を多分に含むために割愛する。(大人ぶりたくて仕方がない年頃なのである。)

ようやくタイトルに戻ろう。

そして、結論から言おうと思う。

自己満足を越える評価はありえない。これは私の持論だ。

面白くないテーマを選んでしまって後悔しているわけではないが、今回は早急に決着をつけようと思う。

 

要するに、自分の想像力の限界がどこにあるかという話である。

最高に面白いと思って、これ以上ないと思う感動が目の前に現れたとき。私はものすごく今の現状に対して満足をして、これ以上ない喜びをかみしめるだろう。

そう。これ以上ないのだ。比喩ではない。

誰かの評価というのは、現象より必ず後に来るものである。

つまり、自分が感じるより先に起こる評価はありえない。

このとき、私はものすごく喜んでしまうのである。自分の中の感動が大きいのだ。

それは共感を得られなくても、他者の評価を待たなくても一律だ。

もちろん、誰かに喜んでもらうために行ったものならばその限りではない。(正確にいうと、「誰かの評価」がこの場合は現象なのでやはりつねに不変だ。)

 

これと似た話に、小説原作の映画化、アニメ化がたいていの場合面白くない。というものがある。

なぜなら、私の脳みその中で展開される表現や臨場感を、現実は越えてくれないからだ。妄想力がたくましいといえよう。もちろん。何回かに一回はそれを超えてくるものがあって、これには大変感動する。よくぞ私を超えてみせた!という気分になる。上から目線で大変恐縮ではある。(このとき、だからと言って私はモニターよりも高い位置に自分の目を実際におくことはない。)

 

そんな、どこかで聞いたような話をなぜいまさらここに書いたのかって?(このような疑問が上がらなかったら寂しいので自分で問いかけてみた)

自己満足である。