前言撤回

タナカがおとどけする、ゆるふわ系徒然ブログ

私って洋楽しか聞かないから、、、って何なの。

お久しぶりです。激動の2月も越え3月も半ばに入りやっといろいろ落ち着いてきまして、こちらの執筆活動も本格的に再開させていきたいなと考えている所存であります。(そんな大層なものでは毛頭ないが)

さて、今回は邦楽を聴きながらふと頭に浮かんだ、洋楽しか聞かない魔人と私との対決の模様をお届けしたいなと思います。

 最後のオチに持ってくるまでもありません。初めに書いておきますがこれは一種のコンプレックスでしょう。認めます。おそらく洋楽しか聞かない派の人間は邦楽しか聞かない人間に対して大した思いは持っていらっしゃらないことと思います。これは前提としてわかっています。

しかし、それでも自分の中にいる魔人と戦いたい。そんなものわざわざブログに上げるなと言うなら、そんなもの読むなとあえて先手を打ってから書かせていただく。(そこまで回りくどい理由は一体なんなのか自分でもわかりません。)

さて、邦楽と洋楽の間にに横たわる差異についてい今さらながらご紹介させていただきましょう。まずパッケージの一番上には効能と大きく書いてあるはずです。そこをとりあえずは読みましょう。

 

1. 歌詞がわかる。(わからないもの、ないものを除く)

これに関して反論できる日本人は人口の5分(私調べ)です。そもそも歌というものには歌詞という素晴らしい文化があり、そこには英知が詰まっているわけです。それを紐解き自分に向け解釈を深め、味わうことこそが王道。とりあえずよくわからないけど歌っていいよねという軟弱な姿勢を見せたくない。もちろん、そういう気持ちはわかります。本当にいいものは、言語を超え、文化を超え、時代を超えます。そういった作品とも呼べるものに出会えたのならば、そこで歌詞がわかるだの、聞き取りづらいだのなんだのと、のたまうつもりはありません。しかし、普段から日常的に聴いている音楽のなかでそんな曲は100に1ついや1,000に一つ。私、洋楽しか聞かないから、、、というほどの音楽好きが常にそういう曲と出会っているとはとても思えない。ならば、音楽を聴いている間にメロディー以外の文字情報がわかっている分、歌詞がわかることはメリットであると言えそうです。歌詞カードを見ればわかるという反論は受け付けません。歌詞カードを見てしまった段階で、それは音楽+文学です。

 

2.  親しみやすい (親しみにくいもの、わからないものは除く)

は?と思われた方。いえ、これは大事な要素です。やはり文化には色があります。温泉に入り、浴衣を着て、畳の上で湯呑片手にお茶をすする我々にはそれ相応の色に染まっていると考えるのが妥当というものでしょう。靴のまま家にはいり、ポテチ片手にピザを頼んでコメディを見ながらコーラを流し込むということが当たり前の文化で作られた音楽との間にはさすがに多少の壁がある。いや、この壁を乗り越えることにこそ意味があるという方には何も言えません。苦労をすることにこそ価値があるというのならば確かにそれは間違いではないでしょう。しかし、文化は文化、わざわざ大衆に逆らう労力を音楽を聴くときにまでかけるというのはいささか疲れるのでは、と思います。

 

3. よく耳にする (よく流れていない、わからないものは除く)

 これは前項の親しみやすいにも通づるところがありますが、つまりはそういうことです。人間には慣れというすばらしい性質があり、何回もおなじことや物を使ったりきいたりするとそれに対しての親和性が高くなります。つまり、日本にいる限り耳にする音楽が邦楽であることを考えると、きわめて親和性が高く、なじみやすく、落ち着くという効能があることは容易に想像ができます。

以上いろいろあげてきました。いい加減にしろ、文字数を確認してから記事をかけ、等々怒られそうなので、そろそろやめにしたいと思います。

 

さてまとめです。つまり私が言いたかったことは、洋楽<邦楽じゃね?

ということでは断じてありません。洋楽結構。最高にクールな曲がたくさんあることもわかっています。そうではなく、どちらか一方しか理解しようとしない狭い心では、わかるものもわからなくなり、見えるものも見えなくなるぞ。と、そういいたいわけです。

ふう。手が疲れました。

今日は終わりにします。おやすみなさい。枕元でBUMPかけとこ、、、