さいきん
ここ最近は毎日更新している。
そのため、ネタがだんだんなくなってくる。
いや、日記なんだからそれでいいだろ、おまえは誰に向けてどれだけ価値のある文章を書いているつもりなんだ恥を知れ、と天から聞こえてくるような気がします。(いや、ただ眠いだけです。)
今日はとりたてて書くようなこともない。
さてどうしたもんか。いま悩んでいる。話しかけないでほしい。(もちろんいない読者から話しかけられることもない。じっくり悩むことのできる素晴らしい状況である。少しくらい妨害してほしい。)
さて、なんとなく思いついたような気がする。
最近、トレンドといえばやはりアプリであろう。
様々なアプリが市場に出回り、大変な様相を呈している。
陣取り合戦もここまでわちゃわちゃしていると何が何だかわからない。
さっきまで黄色かった旗がいつのまにやら青くなって、ああそうか時代は青色か、やっぱり青が最強だよなふふんと、思っている横から、あっどうもこんにちは今日もいい天気ですねみたいな顔で赤色に塗りなおす輩がいる。(注:ポケモンGOの話ではない)
つまり現在新しいアプリの開発を行う場合、収益度外視で自分の作りたいものを作るべきである。自分が欲しいものを作って、まあ他に誰か落としてくれて役に立てばいいなあくらいに思うのがいい。
別段なんのことを言いたいわけでもない。ただ大変そうだなあと思っている。
そして、欲しいものがなさそうだから自分で作ろうと決心した今日この頃。
何とか今週中には完成させたい。決意表明である。
まあそれはさておき今日は彼女と心が通じたような気がしてものすごく気分が良い。
人間、通じ合えることなんかないし、わかろうと思ったってわかるわけもなく、わかった風になるなら、わからないとさっぱり思っているほうがまだすがすがしい。
だからあんまり、彼女の動きどうこう(ダジャレである)を気にしないようにしているのだが、どうも気になって仕方がない。理性を超えたところに感情というのはそびえたっている気がする。
基本的には感情を理性で制御できていたはずだったのだが、どうも最近調子がおかしい。惚れた弱みだと思ってあきらめも入っている。
それでも時々、いまはさすがに同じこと考えてたよね以心伝心だよね。と思う時がある。(直接聞くと、いやちがう。とにべもなく拒否されるので私の思い込みの可能性も捨て切れない)
さて、本当に何が書きたかったのかわからなくなってきたから今日はこの辺で。
恋は迷走である。
とうかこうかん
等価交換は現実世界では成り立たない。
正確には成り立たせても意味がない、が正しい。
ハガレンの読者諸君には不満を持つ方もいるだろうと思う。
物語にあっては、等価交換が厳守されていた。あの法則によってあの物語は成り立っていたといっても過言ではないと。
ここで、皆さんに質問である。
人間にとっての価値を三段階A、B、Cにわけるとする。そして、あなたは価値Aの宝物を持っている。そして、アルフレッド君にこの植木鉢と交換してくれないか?と頼まれた。その植木鉢もなかなかの品ではあるが価値はBである。
さて、交換するでしょうか?
答えは、わからないです。
なぜか、物に対する価値基準は絶対ではないから。
どう考えても、価値Aのものと価値Bのものでは交換すれば割に合わない。
しかし、アルフレッド君は名家の一人息子でものすごいお金持ち将来有望、ここで一つ貸しを作っておけば後で帰ってくるものはお宝程度ではないかもしれない。もしかしたら、逆に彼には借りがあってこのくらいの無茶な要求はのまなければいけないくらいの関係なのかもしれない。
どちらの場合も、物品とは離れた位置に考えなくてはいけない要素が存在する。そしてそれを考慮したとしても、残念ながら等価ではないでしょう。本当に等価ならば交換する必要がそもそもないのですから。
そろそろ賢明な読者諸君はお気づきでしょうが、つまりこれは問題が良くない。
価値A、価値Bと勝手につけてしまったが、それがそもそも人によって違うのだから等価にはならない。なった時には交換する必要がないという現実。
つまり結論としては、等価交換はありえないのです。
どちらかがより利益を得、どちらかは損をする。(両者にとって、それぞれの価値が自分のものより大きい時にだけ両者が得をします。これも等価なわけではないです。)
つまり、何か行動を起こすときは、必ず自分にとって(つまりここが最重要)価値の大きいほうをつかみ取らなくてはいけないということ。
そのように常日頃から行動しなくてはいけないということです。
ふう、久々に頑張ってカッコつけた読書感想文を書いた気がします。
今回私が言いたかったのは、「ロマンス小説の七日間 三浦しをん著」がしっかりと面白かった、という話です。この本は集中のあまり一時的に僕の視力を奪いましたが。
きんにく
筋肉関係の話題である。
そういうのに多感なお年頃である。
本日はわざわざ大学の図書館に出向き筋肉関連書籍を探した。
さすが大学というだけあって、より専門的な理論に基づいてる感のある本(本当に専門的かどうかは専門の人間でないと気づけないというジレンマ)がたくさん並んでいた。
これは、私の彼女が言っていたことだが、
「選択肢が多すぎても迷惑なだけだよね、、、もっと少なくしてほしい。」
なんだったか家電を買おうという話で言っていた。ということを思い出した。
多すぎてちょっとどこから手を付けていいかわからない。
なので、ピンとくるやつを探そうと思ってなるべく先入観にとらわれず書棚に目を走らせた。
そんな中で私の目に留まったのがこちらである
「思い立ったらスグできる!1回30秒 ノーモーション筋トレ ギュギューットレーニング考案者 廣原 誠」
である。
なんともこう欲望に満ちている。
あんまりがっつりはやりたくないなあとか、じかんかかってやなのよねえとか、家ではかぞくのめがあるし~とか、やっぱり時代はノーモーション!!!ギュギューッ!とか(いや、おまえは誰だ)
そんなわがままを許してくれそうな圧倒的な包容力を感じてしまったので仕方なくこの本に決めた。やはり決め手は包容力である。
決してノーモーション!!!ギュギューッではない。
皆さんもあまたある人間のなかから選ばれたくば、ぜひともわがままをかなえてくれそうな包容力(金)を手に入れましょう。
これからの皆さんの繁栄を願って、、、(さて、いよいよ趣旨を忘れてきた。)
にゃんにゃん
猫、という生き物がいる。
みなさんはご存じだろうか?
ネコ(猫)は、狭義にはネコ目(食肉目)- ネコ亜目- ネコ科- ネコ亜科- ネコ属- ヤマネコ種- イエネコ亜種に分類される小型哺乳類である
wikipediaより引用
この生き物、驚くほどかわいい。
どのぐらいかわいいかといえば、その場にいるだけで幸福感を感じ、全身に襲い来る多幸感で猫が近くにいることに気付けるくらいである。(主観はイメージです。)
よって、今日は猫カフェに行った。彼女と行った。ラブラブである。
さて、猫カフェでは大方の予想通り、猫に無理にかまってはいけない。しっかりと手を洗わなくてはいけない。無理に起こしてはいけない。フラッシュは禁止等々の説明を受け、座席(フリーではあるが)に案内された。
右に左に前に後ろに、猫がいる。
幸せである。全身を包む多幸感によって猫の存在を把握するまでもなく、猫が周りにたくさんいる。
行った時間は、およそ1時。夜行性の猫はおねむの時間である。昼寝をしている子が大半であった。寝ているのをいいことに
むにゃむにゃして、もちもちして、がざがさして、ふにふにした。
あいだ、ちび助(本名ドレス)に噛まれたり、でかぶつ(本名アイルー)にちろちろされたりといろいろあったが、気づくとあっという間に一時間である。これにはびっくりした。あまりの時間の進み具合に明石に何かあったのかと心配をするほどであったが、むしろ私のテンションの上がり具合に彼女が心配していた。
かなり、いいところである。猫カフェにて、猫と戯れることなくもくもくと読書をしている青年を見かけたが、あの姿もまた良い。おそらく常連なのだろう。前述ではあるが、猫が近くにいるだけでそもそも十分に幸福感はある。なんともうらやましい時間の使い方だ。ぜひとも参考にさせていただきたい。
なんとも有意義であった。
猫それぞれの性格を把握し、それぞれの子にあった接し方を覚えればさらに楽しいに違いない。つまりやりこみゲーである。
早く鉄拳神になりたい。
ぴざ
世の中には、道というものがある。
人間の一生は常にその選択とともにあるといっても過言ではない。
右に行ったかと思えばすぐに左。
左に行くかと見せかけての直進。
直進に直進を重ねることもしばしばである。
目の前に選択を迫られるそんな時。あなたは何を指針にするだろうか(この雰囲気が完全に宗教の勧誘になっていることには気づいている。安心してほしい。)
そう。Google Mapである。
今回は眠いのであまり長いことを書く気はないが僕は東京都の葛飾というあたりに住んでいる。葛飾区の特色、特産品、観光スポット、おすすめのジョナサンなどはおいおい書いていくこともあるだろう(それ以上に書かない可能性もあるだろう)。
そんな中にあって、現在ぼくはピザ屋で働いている。
そう、いま頭に浮かんだその職業、それである。(もし違う職業が浮かんでいても責任は取らない)
よって、土日は配達に行く頻度が高い。
本日も元気に配達をしてきた。霧雨で肌寒かった。早く家に帰りたかった。が元気である。ということにしておこう。
配達をしていると、町の変化に敏感になったりする。とくにマンションやらビルやら大きいものは移り変わりがリアルタイムである。そうでなくても最近開発が多い。
おかげで、今日はなかなかファンキーな住所にぶつかってしまった。
僕はそのとき494(仮称)番地を探していた。店舗に大きく張ってある全体の地図では493までは見つかった。しかし隣がいまいちごちゃごちゃしていてわかりずらい。
店長はやけにピリピリしてるし、そこそこ混んでるしで、とりあえず行ってみて探すことに決めた。
493にたどり着いた。まあ何となく数字を追っていけば494にぶつかるだろうと気楽に考えていた。それは甘かった。
491、492、493ここまではよい。隣接している。明らかに近所であることは明白(明らかに明白なのだ。それ以上でもそれ以下でもない)である。
しかし、その道を一歩挟んだ先が、504。絶望感である。
その(ありがたいことに番地表示をしてくださっている)一軒家(島村さん)はあたたかく僕を迎え入れてくれていた。庭先もきれいに整えられ、玄関はしっかりと清掃が行き届き、インターホンはあたかも押してくださいと僕に向かってお辞儀をしているようであった。
これは、行かなくてはと心が揺らぐことは、しかしなかった。
当然である。島村さん宅がどれだけ温かく迎え入れてくれたとしても、おそらくピザを頼んでいないのである。そんなところに無粋にもノコノコ出ていけばお辞儀をしてくれていたインターホンは牙をむき(イメージ)、きれいな玄関先は世紀末と化し(イメージ)、庭先ではバトルロワイヤルが開催される(イメージ)に違いない。
そんな目にあうことは御免被る。
さて困った。と、ここでようやく僕は面倒くさがらずにGoogle Mapに頼ることに決めた。
そして驚き。僕があれだけ(約3分間)探し求めても見つからないのは当然である。
大通りはさんでさらに道を一つ挟んで、その小道を右に行ったところだったのである。
確認した。何度も確認した。どう考えてもおかしい。491、492、493と軽やかなリズムでもって見事につながったメロディーは明らかに大通り(および更なる道)によって不協和音を奏でている。
なんだこれは、さすがのGoogle も松戸まではカバーできなかったかと。
そうか、気づいていなかったけどここはど田舎で、住所表示さえもおかしくなってしまうのかと、さんざん文句を垂れながらも、とりあえず指定されているポイントに向かった。
あった。普通にあった。あ、待ってたよ。みたいな顔で家がこちらを見ている。
Googleさんはぜひともこれからも頑張ってください。応援しています。
びよういん。
タイトルからお察しの読者も多いと思うが(読者は今のところゼロ人であるが。)
本日のテーマは散髪である。
常日頃から僕はなんとも髪を切り行くのを面倒だと感じている。
かといって、切りに行った後に気分が悪いかといえばそんなことはない。むしろすがすがしい気持ちでいっぱいであり、これから何かいいことが起きそうな予感さえ感じている。
しかし切りに行く前は何となく憂鬱な気分になる。具体的にはこうだ。
~予約3時、現在1時~
「ああ、そういえば今日は髪を切りに行くのだった。すっかり忘れていた。めんどうだ。昼飯どうしようかな。」
~現在2時~
「あっそういえば、トト姉ちゃん見てなかった。これはまずい。さっそく見なくては。そういえば昼飯どうしようかな。」
~15分後~
「ついに明日でトト姉ちゃんも最終回か、、、感慨深いな。あと30分もしたら準備しなきゃ、、、面倒だ。昼どうしようかな。」
~30分後~
「ああ、行かなきゃ、もう予約してしまっている以上遅れたら迷惑がかかるしこれはよくない。準備だ、準備(ソファでぐだぐだ)」
~5分後、現在2時50分~
「おっと、うっかり寝ていた。あぶないあぶない、さすがに出よう(重い足取り。)昼どうしようか。」
まあこんな感じである。隙間の時間でほとんど物語は進展していないように見えるがそんなことはない。しっかりと日米のパワーバランスについて頭を悩まし、日本経済を支えていくための施策をメモ帳にかきとめ、トルストイをついに読破していた(ら、いいなという空想の自分を作ってあそんでいた。)
そんなこんなで、面倒くさいながらもなんとか約束の時間で髪を切り、極めてさわやかな気持ちで店をでて、彼女に散髪の報告を(今回は切る前と後の写真を前後で比較するという画期的な方法で)終え、今日一日の活動としては極めて満足のいく内容だった。
ちなみに彼女からは「わはは」と返信が来た。これには何の脚色もない。
つまり、「わはは!」でも「わはは(*'▽')」でもなく「わはは」である。
そこに何となく愛着というか、好感をもった。
きっと純粋に(散髪後の写真を送るなどという行為が馬鹿馬鹿しいので)笑ってくれたに違いない。
愛らしい限りである。彼女に笑いを提供できたことを僕は光栄に思う。
とまあ今日はこんなところで日記を終えたいと思う。
しかし、今回はなんの話をしたかったか忘れていた。
そうそう。美容院で頭を洗ってもらうのってものすごく気持ちいですよね?
はじめました。
あまりにも文章を巧みに操り、読者を爆笑の渦に巻き込む天才というのが世の中には存在する。
上田である。(さんをつけるべきか否か、これは迷ったが卓球でも格闘ゲームでも負けていないのでさん付けは却下することにする。)
彼のブログがあまりにも面白く人生があまりにも輝いているように見えた、いや読めた。そのためうらやましくなって筆を、いやパソコンをとった(いや決して妹から取り上げたわけではない)。
ヒモでも、ひきこもりでも師匠と今後は呼ぶことにする。(特に今後呼ぶ予定はない)
かくして、ブログを書き始めることになったわけだが、初めから背伸びをしても仕方がないので、とりあえずさっき思ったことをダラダラ書き連ねることにする。
「初めまして。」
と、よく口にするが(いや最近は新しい人間に出会わず回数が減ったが)、この「。」はいったいなんなんだ。とりあえず「。」みたいな姿勢が気に食わない。とりあえずカフェラテみたいな雰囲気を感じる。(これが批判か羨望か判断が分かれるところではある)
これはこの後に文章が必要だろう。
「て。」、で文章が完結することがあってよいのだろうか。文法的にはしらない。個人的にはどうかと思う。
他に例を挙げるとわかりやすいだろう
「遅れまして」(ごめんなさい)
「息まいて」(走り去っていった)
「あけまして」(おめでとう)
「刺さって」(痛い)
「綿棒に刺さって」(痛い?)
「マンホールの上の綿棒に刺さって」(?)
「突如落ちてきたマンホールの上の綿棒に刺さって」(???)
とまあ、普通は文章が続く。しかし、「初めまして。」は(ぺこっ)
でなんとかなる。これはあんまり芳しくない。
「遅れまして」(ぺこっ)
「息まいて」(ぺこっ)
「あけまして」(ぺこっ)
「刺さって」(ぺこっ)
「綿棒に刺さって」(ぺこっ)
「マンホールの上の綿棒に刺さって」(ぺこっ)
「突如落ちてきたマンホールの上の綿棒に刺さって」(ぺこっ)
後半戦はもうはっきり言って狂人である。
台風16号の猛烈な強風(秒速52m)に屈しない強靭なアナウンサーでさえ、綿棒が刺されば(ギョエッ)とカタカナになるに違いない。
ということで一文にするのであれば、「て」は「た」
に変更するべきである。
何が言いたいかったかといえば、
「初めまして、タグチと申します。これからどうぞよろしくお願いします」
これが正しい。