お久しぶりです、
仕事のメールタイトルには気をつけなさい。という記事をよんだ。別段そのことについて掘り下げるつもりもないし、似たようなマナー系の記事は無数にあるので適当に参照されたい。
その中で、「タイトルは簡潔に、かつ、ある程度内容がわかるようなものを」とのことなので、どんな内容なのか、あえてさっぱりわからないタイトルをつけた。
久しぶりなのは、定期購読していただいている読者ならばおわかりだろう。(そんな読者がいないことを私はとっくにわかっているわけだが)
さて、今回は鍋の話をしようと思う。
なべ、である。皆さんもお持ちだろう。
いろいろ諸事情あって新生活が始まった。新しい生活の場ができた。
そんなおり、皆さまなら調理器具は何を持っていくだろうか。ここでは最小限でという制約をつけよう。
私は、フライパンと、ざると、鍋を持っていくこととした。
切る系は、もうこの際いらない。やさいはちぎればよろしい。肉も同様。
炊飯器もこの際いらない。鍋で炊けばよろしい。
その他いろいろ、鑑みて、この3種の神器をキッチンにおける守り神として鎮座(実際には使い倒すわけだが)させることになった。
ここまできて、私のブログに精通している聡明な読者なら私がなにを言いたいかわかっただろう。(私はまだいまいちわかっていないので、もし分かった。と思い、かつそれが見事的中したかたは完全に私の意思を超えている。今後はこのブログをあなたが継続していくのがよろしい)
つまり、世の中、大は小を兼ねるのである。
私の鍋はニトリで購入した980円の20cmのものだ。これ一つあれば、炊飯器などいらない。何でもできる。ラーメンも作れるし、パスタもできる。ごはんも炊けるし(ちなみに予測変換では猛氏である。かっこいいのでそちらを採用しようかと思ったほどだ)カレーだって、シチューだって、肉じゃがだって作れる。なんでもござれである。にもかかわらず、世の中にはさまざまな調理器具があふれ、いろいろな電気的介入を受けている。
なんとも不思議なことだ。そう感じる。米を炊くのを一つ例にとっても、数万する炊飯器よりも980円の鍋で炊いたほうがうまいと感じる。
では、この値段の違いはなんなのか。
利便性である。これは真理だと思う。
我々は、品質(クオリティー)ではなく、利便性に最もお金をかけるのだ。
例えば、食器洗い機。これも100円のスポンジと、100円の洗剤があればより高いクオリティーで食器を洗うことができる。妙な洗い残しや、頑固な油汚れだって、時間と労力をかければ、なんということはない。しかし導入しているご家庭は多い。楽だからだ。多少の諦めと、ちょっとの気配りで、とても楽できる。そのために数万、数十万かけるのだ。
しかし、利便性というのは最終的な目的足りえないと思う。
食器をどれだけ早く楽に洗えても、盛り付ける料理がなければ意味がない。
どれだけ調理が簡単で、素早くできても、おいしくなければ意味がない。
意味がない、などど簡単に切り捨てるほど私はえらくない。
なので、そんなことはないと、一応とってつけておく。
我々が目指す最終地点がなんなのか、きわめて興味深い。
手段はあくまで、手段なのだ。なんのために今行動しているのか、今一度立ち止まってはどうか。
などどえらそうなことを言うほど私はうまいこと生きてない。